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2011年6月14日(火)
開催日 | 2011年6月14日 |
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講師: 東京大学サステイナビリティ学連携研究機構特任研究員 松山聡
概要:
東京大学では、平成14年(2002年)より、火山噴火罹災地における文化・自然環境復元研究の一環として、イタリア南部のナポリの東方およそ16kmに位置し、活火山として有名なヴェスヴィオ山北麓に所在するローマ時代帝政期の遺跡において発掘調査を継続している。
一般に、火山噴火災害によって極めて短期間のうちに埋没した遺跡には、噴火直前の日常世界が極めて良好な状態で封印されている可能性が高い。豊富な遺物とそれらを関係づける相対的な位置関係を解析することによって、当時の具体的な人間生活や罹災後の環境変化を復元的に描出することが可能になってくる。
本調査は、単に考古学や美術史学的なアプローチにとどまらず、火山学、地理学、土壌学、植物学、情報科学など、様々な研究領域における基礎的データの採集フィールドとしての機能も果たしている。そしてこうした研究の有機的な結合によって、噴火直前の日常世界を復元的に描出することに加えて、地域社会の復旧や復興あるいは変貌のプロセスも視野に入れた、より時間軸の長い「文化環境復元」という一つのモデルを提示することを長期的な目標としている。今回は、こうした流れを踏まえた上で、現在までの研究成果を概観するとともに、その成果と現代の地域社会との関わりなどについて報告を行った。
遺跡は、紀元後2世紀前半に創建された大規模な建物跡によって構成され、ヴェスヴィオ山の噴火によって西暦472年に大半が埋没した。建物の全貌は未だ明らかではないが、今までに判明しているレイアウトや秀麗な装飾要素なども勘案すると、創建当初においては、何らかの宗教的な性格を有する公共の施設の一部を構成していた可能性を考えることができる。
さらに、4世紀から5世紀にかけての時期に建物の使用目的が大きく転換し、以後はワイン製造のための醸造所として利用された可能性をうかがうことができるが、5世紀の後半にはこうした地域産業としてのワイン製造も廃れて、472年の噴火による罹災時には既にほぼ廃墟化していたものと考えられる。
噴火罹災後は、当地周辺に復興の試みが加えられた痕跡はなく、その後17世紀前半の大噴火以降に至るまで、人間活動の痕跡は認められない。
一方、遺跡から南東方向におよそ2km離れた山裾にある現在の市街地は、歴史的にみてその起源は12世紀~13世紀頃とみられ、本来は政治的および軍事的意図をもって構築されたものが継続的に発展したものと考えられる。また、17世紀の古絵図などを参照しても、遺跡周辺は原野あるいは簡単な果樹栽培がなされる程度の景観が広がっている。こうしたことから、遺跡を残した社会集団と現在の町の基礎を構築した社会集団の間には断絶が考えられるが、火山噴火罹災とその後の600年~700年にわたる空白期をどのように評価するか、という問題が提起されつつある。
加えて、遺跡を現代的視点で俯瞰すると、EU統合などに見られる、ヨーロッパ域での社会構造の変革に伴う影響は、確実に地域経済にまで波及し、当地においても果樹栽培を中心とした農業主体経済の停滞が顕在化するとともに、社会全体の活性化が大きな課題となりつつある。こうした中、ここ数年、遺跡の文化資源・観光資源化という方向での市当局の検討も活発化している。もとより、安易な観光資源化が必ずしも好ましい結果をもたらすものではない例は枚挙に暇がないが、今後、持続的な社会の安定的発展の一助として、調査の成果をどのように位置づけていくかという、新たな視点からのアプローチも必要となってくると考えられる。