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2006年11月30日(木)
開催日 | 2006年11月30日 16:00-17:30 |
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会場 | 東京大学工学部14号館2階144講義室 |
『仏教の自然観』
講師:竹村牧男氏(東洋大学 文学部インド哲学科)
<概要>
サステイナビリティを考える上で個人のライフスタイルの転換に関わると思われる仏教の視点にたち、今回は唯識思想について紹介。
唯識の歴史は、インド大乗仏教の二大学派の一つであった瑜伽行派に遡る。弥勒、無著、および無著の弟の世親が大成したとされる。その後も、護法・戒賢(500-600年代)らによって深められ、玄奘・慈恩大師窺基(600-700年代)によって中国に移植され、道昭、玄昉らによって日本に伝えられて、興福寺、薬師寺、法隆寺等で研鑽された。
唯識の目的は、「我執を断じて涅槃を実現し、法執を断じて菩提を実現する」ことにある。人は不変の自我と物があると思い、それらに縛られ引きずられるから苦しみがあり、ゆえにそのあり方から解放されたときに本来の自分を実現できる、というものである。
唯識の見方として、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識の八識が存在するという。この中で、最初の5つは感覚で現在のもの、意識は一切を認識し、過去・未来をも対象とするもの、末那識は絶えず自我を執著しているもの、阿頼耶識は過去一切の経験(アメーバ以来の進化の経験)を貯蔵するものである。我々が有ると思っている物は、意識が五感の流れを束ねて作り出したものであり、言語が大きな働きをしている。本来、刻々と変化する世界に対し、意識が言葉を立てることによって、自立的なものが把握される。それが物の実体化、物への執着を生み出し、苦しみの生起となる。(三性説)
唯識思想の意味は、主として言葉を通じて実体視し執着している我と法とが無実(実体がない)であることを了解させ、その執着から離れさせ、言葉以前のリアリティそのもの、いのちそのものに触れさせ、目覚めさせることにある。自我と物への執着から解放されることで本来の自分を取り戻し、その自己実現のなかで、他者への善行、環境への善行を実践し、すべての生きものが平和に豊かに暮らせるようになることを目指す。
竹村先生へのインタビュー
仏教観におけるサステイナビリティとは?
仏教は、世間・世界を問題とするより、心の内部を問題にしてきたという傾向は否めないと思います。ただ大乗仏教は、仏道のなかで真実の自己のありかを了解し、同時に他者のためにはたらいてやまないいのちを実現していこうとしています。そのなかには、この世に浄土を完成していくことも含まれていると思います。我々の、対象にかかわりそれにからめとられているあり方からの解放が、そのことを実現すると見ているのですが、それにはやはり、欲望から自由になることが最初の通路になると考えられていると思います。いわゆる「少欲知足」の立場です。仏教が直接、技術のあり方を主導したり社会の制度を指導したりすることはむずかしいでしょうが、他者の苦悩に共震・共苦し、自他の苦悩からの解放に向けて、少欲知足も実践し、必要な活動に邁進していく生き方は導くことができるでしょう。それが、サステイナビリティにつながるのではないかと考えています。未来の見知らぬ他者の苦悩に対する切実な共苦が世代間倫理を意識させ、同時代の見知らぬ他者の苦悩に対する切実な共苦が南北間倫理を自覚させると思うのです。
日本、アジアが果たす役割は?
よく西洋は要素還元主義的、機械論的、主客二元論的、東洋は関係主義的、全体論的といわれますが、今日の危機的状況の前で、西洋のほうが関係主義的世界観やそのもとでの自己の再解釈を強力に進めている部分もあり、東洋だからといって現代の諸問題に万能とはとうてい言えないと思います。むしろ東洋は、その伝統的思想的遺産がどのように今日の問題に貢献できるのか、あらためて真剣に厳密に吟味・検討すべきでしょう。安直なグローバリゼーションに対しては、諸地域の生活様式や価値観の多元性を尊重していく立場を訴えつつ、しかし西洋も含めて異なる文化・伝統にも深く学んでいって、新しい地球市民の生き方を模索し発信していくことは、大切だとおもっています。
若者に向けてひとこと
日本の若者に対してですが、常識的な価値観にとらわれず、むしろそれらを批判的に考察して、何のために生きるのかを根本的に問い、しっかりとした自分の考えを持って、受身でなく能動的・自主的に生きていってほしいと思っています。それから、弱者への思いやりを持てる人間になってほしいと思います。電車などで、お年寄りがいるのに優先席にさえ坐って平然としているのは、もはや人間とは言えないのではないでしょうか。
大人に向けてひとこと
野球の野村監督は、生涯一捕手と言っていましたが、私は生涯一学生でしょうか。私も団塊の世代の一人ですが、日本は生涯学習が可能な社会になってきたわけで、いつの年になっても新しい勉強に取り組んでいけば、いきがいも得られると思います。もう年だから、という言葉は言わないようにしましょう。