あまり政治向きのことは書きたくないのですが、これはぼやきたいくなります。
野田佳彦首相は関西電力大飯原発3、4号機を再稼働させることに関し、次のように述べたと報道されています。
「精神論だけでやっていけるのかというと、やはり国民生活、経済への影響を考えて、万が一ブラックアウトが起これば、大変な悪影響が出る」。
精神論という言葉は、一般には、否定的な意味合いで用いられることが多いようです。現実を冷静に直視すれば、不可能な状況であるにもかかわらず、可能であると信じれば突破できるとするのが、批判の対象となる精神論でしょう。
首相が「精神論だけでやっていけるのか」と批判したのは、脱原発のことなのでしょう。脱原発は、現実を真摯に見ないところから生まれた精神論なのでしょうか。そのように一言で決め付けて、脱原発を片付けてよいのでしょうか。
原発再稼動に関連して、全原発が停止した「異常事態」に終止符が打たれたのを歓迎し、ほかの原発の再稼働につなげたいという主張も見られます。国の活力を維持し、国民生活を守るためにそれが必要だといいます。それこそが現実を直視したところの、「精神論」ではない考えなのでしょうか。
この主張と脱原発と、どちらがより真剣に現実を見ているのでしょうか。この夏という極めて短期間だけをみれば、再稼働が現実を直視しているという評価も可能かもしれません。しかし、それよりも時間スケールを長くすれば、その評価はたちまち劣位に立たされるでしょう。サステイナビリティの観点からすれば、原発再稼動の主張は、あまりに短期的すぎて、かつて満州は生命線とか言って戦争を泥沼化させた主張と相似形にすら見えます。
首相は「二分している問題について、しっかりと責任を持って結論を出すというのが政治の役割だ。私の責任の下で判断をさせていただいた」と述べたと報道されています。どのような責任の取り方があると考えているのでしょうか。
未来を展望して思索を巡らせば、いま行うことに恐れを抱き、軽々に「責任」などとは言えないはずです。そうした、人としてごく普通の「精神」の営みすらないのかと思うと残念です。精神論だけではやっていけないのかもしれません。しかし、当たり前の精神もなしで、やっていけるものなのでしょうか。事の重大さに比して、批判を「精神論」と言って封じ込め、「責任」という言葉をごく軽く使うことに、寒々しさを感じます。
2012年6月18日(月)